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無垢な心

私は人が必死に頑張っている姿を見るのが大好きである。
また、それ以上に、動物が頑張っているのを見るのが好きだ。
昔から無垢なものに憧れるし惹かれる傾向にある。
そんな話を先日後輩の女子と呑みながら話していたら「そりゃあ、姐さん、(私のこと)姐さんがどんだけ穢れているかってことですよ」とのたまった。。

ひひどい。。。

そりゃあ、私も人生半世紀も生きれば色んな出来事に遭遇してきた。様々な修羅場を目にしてきた。そんな中でもなんとか生きていくための対処を粛々とやってきたかもしれない。それと自分の好みの問題とは別だ!と言っておこう。

私のことはおいといて、、

まず動物である。動物といえば私の身近にいるのは犬である。13年前から飼っているミニチュアダックスの雄、「ぴー」がいる。ぴーは長年私にとっては地球上でもっとも身近な存在である。多分、私のことを誰よりも一番知っている。私が元気な時も病気の時も、辛い時も嬉しい時も、13年もずっと傍にいたのはぴーしかいない。13年もの間、ぴーは私を見続けてきた。私もぴーを見続けてきた。ここまでいつも一緒にいると、もう動物でも犬でも人間でもなく、同志、なのである。

つまり、ぴーはこの13年間、不幸なのか幸せなのかわからないが、私という飼い主のもとで、ぴーに選ぶ権利もなく、私と生きることになってしまったわけだけど、とにかく従順で素直で、泣けるほどに優しい心根をもつ生き物だったのである。それは、ぴーの目が全てを物語っている。

あるとき、テレビでアフリカの飢餓に苦しむ子供たちの映像が流れた。彼らは痩せ細って苦しみを余儀なく与えられ、それに耐えながら生活している。そんな子供の目が、ぴーと同じだったのだ。

話はどんどん飛んでいくが、マヤ暦を最近学んでいる。マヤ暦の考え方は、「宇宙の法則」に従うことである。宇宙の法則とは、陰陽のバランスである。陰と陽は等しい量で人間には与えられているというのが宇宙の法則である。私はこの考え方は正しいと信じている。全てはバランスで成り立っているのであれば、例えば、前述のアフリカの飢餓に苦しむ子供たちは飢えという苦しみを生まれた時から与えられている。これを陰というなら、陽は一体なんなのか?絶対に全てがバランスで成り立っているならば陽の部分が彼らにも必ずあるはずなのである。

そこで、私が思うには、おそらく陽として与えられたものは「無垢な心」なのだと思う。そしてそれを表すものは彼らが持つ限りなく澄んだ「目」である。TVで観た子供たちは痩せ細り今にも倒れそうなのになぜだか目だけはキラキラとして澄み渡っていた。まるでビー玉のようなまん丸い目で全てを受け入れているような。

これは動物全般、同じ目を持っているんだと思う。そして、人間は子供はみんなそんな目をしているんだと思う。つまり、与えられた世界を受け入れている目、それが澄んだ目であり無垢な心なのである。成長するにつれ、与えられたものに対する不満が生じる。自我が目覚め、人と我とを比べ嫉妬し現状に不満を持つようになる。そうなっていくともう、あの澄んだ目とはお別れなのである。

無垢な心を持ち続けることは人間ならば至難の技。だけど、動物はその心をずっと持ち続けることができるのである。(と信じている)なんて尊い命!!

私は、人間として生まれたならば、人間としての世界を学ぶことも大事だが、それ以前に知恵を持つ生き物として他の動物の命を助けるという使命があるのではないかと思う。なぜなら、宇宙はバランスでできているから。人間がのさばる世界を作れば、必ずそれが壊れるような何かがバランスとして生じるはずである。もともとは人間が生まれる前はそんな世界ではなかったはずだし。

そんなわけで、後輩女子と今度呑むことがあれば、彼女の言葉を訂正してやろうと思う。
「私が穢れているから、ではなくて、人間が穢れているから、無垢なものに惹かれるのは当たり前よ、そしてあなたも犬を飼ってみたら?」と。
ああ、、そういい返そうと思うその心がアウトかな(笑)

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